予感おやじ
「…来る」
予感おやじは確信した。昔からそうだった。彼は、人一倍感受性が強く、来るかどうかがよく分かった。記憶に残っている範囲で最初に予感したのは、幼稚園の年中さんの頃だった。年中さんになると、年少さんのときは入ることが許されなかったプールが解禁される。幼稚園の施設内に備え付けられている、小さく、底の浅いプールだ。同級生は皆プールに大興奮だった。幼少期の予感おやじも例外ではなく、同級生と水かけっこをしたり、浅い場所を這ったりして遊んでいた。水しぶきの冷たさや、地上とはまた違った体への抵抗が新鮮である。我を忘れて楽しんでいた。そんな矢先である。
「…来る」
直観が脳裏をよぎる。思わず空を見る。夏の空は、能天気とも言えるほどに青い。白い雲とのコントラストが美しい。時間が止まっているかのような感覚を覚える。だが、幼少期の予感おやじははっきりと感じていた。来るのだ、と。
記憶はそこで途切れ、実際に来たところや、来た後にどうなったかということは、一切覚えていない。ただ、彼の両親の話や当時の記録を見る限り、予感の通り来ていたらしい。それも、予感おやじが年中さんだった時期とちょうど合致している。
「こうしてはいられない」
予感おやじは、すぐにパターの練習をやめた。彼も、予感おやじと言えどおやじには違いないので、ゴルフをする。家でも気軽に練習できるように、パッティングのグッズをリビングに置いている。道を塞ぐように縦に伸びているため、妻からは大変不評である。そんなことはいいのだ。長男と長女に電話をかけなくては。
予感おやじには二人の子供がいる。予感しない女性との間に設けた。長男は、地元の公務員として就職し、現在は寮に入っている。長女は上京し、都内の大学で心理学を専攻している。
「予感?」
おやじのそわそわを見透かしたかのように、妻が自分の部屋から顔を出した。
「そうだよ」
予感おやじは携帯で長男の連絡先を探しながら答える。
「本当によく当たるもんねえ。来るかどうか。不思議だよねえ」
「自分でもそう思っている」
「結婚して25年経つけどさ、あなたって何なの?」
予感おやじは答えられない。こちらが教えてほしいくらいだ。来る。来る。来る。予感。予感。予感。的中。予感。予感。的中。この人生は常に予感と共にあった。どうしてなのかは分からない。だけど、受け入れるしかないではないか。予感してしまうものは止められないのだから。
予感おやじは長男に電話をかける。日曜日の朝だから、出かけていなければ家にいるはずだ。数コールの後、声が聞こえた。
「もしもし?」
「おお。お父さんだよ。元気だったか」
「珍しいね、電話かけてくるなんて」
「ちょっと急ぎの用事があってな」
「どうしたの?」
長男の声が曇る。予感おやじはゆっくり含ませるように言った。
「実はな…来るんだ」
「来るって…あの?予感で分かったの?」
「そうだよ」
「気のせいとかってことはないの?」
「生憎、この予感は生まれてから一度も外れたことがない。実績があるんだ」
「…分かった。準備しておく」
長男はそう言って電話を切った。次は長女だ。
「もしもし」
ずぼらな長男と違い、長女は1コールで電話に出る。
「もしもし」
「おお。お父さんだよ。久しぶり」
「どうしたの?来るの?」
察しがいい。妻に似たのだろう。
「ああそうだ。来るよ」
「予感?」
「そうだよ」
「毎回すごいよね。生まれてから18年経つけどさ、お父さんって何なの?」
前言撤回だ。長女は妻に似たのではない。妻そのものかもしれない。二人で作った子供なのに、私の遺伝子はどこへ行ってしまったのか。彼方か。
「…とにかく、来るから、用意しておくように」
予感おやじは強引に電話を切った。一日に二度も存在の根源を問われてしまった。少し動揺している。こんなときは手を動かすのが一番だ。常備菜としてほうれん草のおひたしを作っておくことにした。
台所へ繰り出し、ほうれん草を水洗いする。沸騰したお湯で茹でてアク抜きをした後、ザルに移して冷ます。この後、めんつゆと混ぜ合わせて適当な大きさに切れば出来上がりだ。鰹節をかけようか考えるとわくわくしてくる。予感おやじは、若干高揚した心持ちで何気なく窓の方を見やると、来ていた。
予感おやじは確信した。昔からそうだった。彼は、人一倍感受性が強く、来るかどうかがよく分かった。記憶に残っている範囲で最初に予感したのは、幼稚園の年中さんの頃だった。年中さんになると、年少さんのときは入ることが許されなかったプールが解禁される。幼稚園の施設内に備え付けられている、小さく、底の浅いプールだ。同級生は皆プールに大興奮だった。幼少期の予感おやじも例外ではなく、同級生と水かけっこをしたり、浅い場所を這ったりして遊んでいた。水しぶきの冷たさや、地上とはまた違った体への抵抗が新鮮である。我を忘れて楽しんでいた。そんな矢先である。
「…来る」
直観が脳裏をよぎる。思わず空を見る。夏の空は、能天気とも言えるほどに青い。白い雲とのコントラストが美しい。時間が止まっているかのような感覚を覚える。だが、幼少期の予感おやじははっきりと感じていた。来るのだ、と。
記憶はそこで途切れ、実際に来たところや、来た後にどうなったかということは、一切覚えていない。ただ、彼の両親の話や当時の記録を見る限り、予感の通り来ていたらしい。それも、予感おやじが年中さんだった時期とちょうど合致している。
「こうしてはいられない」
予感おやじは、すぐにパターの練習をやめた。彼も、予感おやじと言えどおやじには違いないので、ゴルフをする。家でも気軽に練習できるように、パッティングのグッズをリビングに置いている。道を塞ぐように縦に伸びているため、妻からは大変不評である。そんなことはいいのだ。長男と長女に電話をかけなくては。
予感おやじには二人の子供がいる。予感しない女性との間に設けた。長男は、地元の公務員として就職し、現在は寮に入っている。長女は上京し、都内の大学で心理学を専攻している。
「予感?」
おやじのそわそわを見透かしたかのように、妻が自分の部屋から顔を出した。
「そうだよ」
予感おやじは携帯で長男の連絡先を探しながら答える。
「本当によく当たるもんねえ。来るかどうか。不思議だよねえ」
「自分でもそう思っている」
「結婚して25年経つけどさ、あなたって何なの?」
予感おやじは答えられない。こちらが教えてほしいくらいだ。来る。来る。来る。予感。予感。予感。的中。予感。予感。的中。この人生は常に予感と共にあった。どうしてなのかは分からない。だけど、受け入れるしかないではないか。予感してしまうものは止められないのだから。
予感おやじは長男に電話をかける。日曜日の朝だから、出かけていなければ家にいるはずだ。数コールの後、声が聞こえた。
「もしもし?」
「おお。お父さんだよ。元気だったか」
「珍しいね、電話かけてくるなんて」
「ちょっと急ぎの用事があってな」
「どうしたの?」
長男の声が曇る。予感おやじはゆっくり含ませるように言った。
「実はな…来るんだ」
「来るって…あの?予感で分かったの?」
「そうだよ」
「気のせいとかってことはないの?」
「生憎、この予感は生まれてから一度も外れたことがない。実績があるんだ」
「…分かった。準備しておく」
長男はそう言って電話を切った。次は長女だ。
「もしもし」
ずぼらな長男と違い、長女は1コールで電話に出る。
「もしもし」
「おお。お父さんだよ。久しぶり」
「どうしたの?来るの?」
察しがいい。妻に似たのだろう。
「ああそうだ。来るよ」
「予感?」
「そうだよ」
「毎回すごいよね。生まれてから18年経つけどさ、お父さんって何なの?」
前言撤回だ。長女は妻に似たのではない。妻そのものかもしれない。二人で作った子供なのに、私の遺伝子はどこへ行ってしまったのか。彼方か。
「…とにかく、来るから、用意しておくように」
予感おやじは強引に電話を切った。一日に二度も存在の根源を問われてしまった。少し動揺している。こんなときは手を動かすのが一番だ。常備菜としてほうれん草のおひたしを作っておくことにした。
台所へ繰り出し、ほうれん草を水洗いする。沸騰したお湯で茹でてアク抜きをした後、ザルに移して冷ます。この後、めんつゆと混ぜ合わせて適当な大きさに切れば出来上がりだ。鰹節をかけようか考えるとわくわくしてくる。予感おやじは、若干高揚した心持ちで何気なく窓の方を見やると、来ていた。
所見
私の会社では、毎年5月に健康診断がある。身長、体重の測定に始まり、尿検査や心電図検査などおよそ2時間をかけて体の状態をチェックするわけだ。その結果が今、手元にある。水色の封筒だ。冷たく、重大な問題を突きつけている。
身長、変わらず。体重変わらず。視力良好。血圧良好。血中コレステロール良好。ここまではいい。ただ、備考欄だ。よく見ると小さく「馬鹿の所見あり」と書いてあるではないか。
馬鹿の所見あり?どういうことだ?俺に馬鹿の可能性があるということか?去年まで何ともなかったのに?馬鹿ってそういうものなのか?というか馬鹿ってそもそも何だ。イディオット。ステューピッド。ステューデント。ハロー、ティーチャー。アイ、アム、ア、パン。
結局その日は全く仕事が手に付かず、早めに切り上げて帰宅した。健康診断で何かに引っ掛かったこと自体初めてだったし、それが馬鹿の所見となれば動揺しない方がおかしい。
一体どの検査がいけなかったんだろう。馬鹿だとどうなるんだろう。脳細胞が死にまくるのか。だとしたら怖いな。何かの間違いじゃないのか。いや、「馬鹿の所見あり」は確信を持った口調だ。間違いということはあるまい。「南方に大陸あり」みたいに断定しやがって。発見しやがって。くそ。くそ。どうすればいいんだ。
不安になった私は、週末に病院へ行ってみることにした。調べた範囲では、馬鹿を扱っている病院はないようだ。確かに、「風邪・インフルエンザ・糖尿病・高血圧・各種予防接種・馬鹿の診療を行っております」とあったら「ん?」と思ってしまうかもしれない。そこで、近所の小児科を選んでみた。小児科であれば、小児全般を診ないといけないわけだから幅広い症状をカバーしていると踏んだわけだ。馬鹿の所見があるにしては中々知恵を働かせたと思う。
予約の段階では「健康診断の結果で気になるところがある」とだけ伝えた。そして、週末。初診であったため軽く問診票を書き、医者と対面した。挨拶もそこそこに封筒から結果用紙を出し、「あの、ここの馬鹿の所見ありとはどういうことなんですか」と単刀直入に聞いた。
「ああー。馬鹿ですか。これはですね、頭が悪いということですね」
医者の答えは驚くほど簡単だった。頭が悪い。知能が低い。ガラス越しに餌のあることが分からず、何回でもぶつかってしまう。ガン、ガン、ガンガンガン、アレレー?
「最近頭の悪くなるようなことはされましたか?例えば、解けるパズルを解かなかったり」
「いえ」
「意味をよく知らない横文字を使ったりは?」
「特にしていません」
「自覚症状はどうでしょう。ジャムに手こずったりしましたか?」
「そんなことはないです」
「チャンピオンシップって言葉が急にかっこよく思えたりとかは?」
「心当たりないですね」
医者はメモしたカルテを見て一瞬考えてから、
「では、簡単な検査をしてみますか」
と言った。本格的に知能を調べるのであれば、「ウェクスラー成人知能検査」という成人用の全般性脳機能検査があるのだが、大きな病院の精神科に行かないと出来ないらしい。ただ、馬鹿なのか調べるだけであれば「くそ馬鹿対応式ちのー検査」で十分間に合うとのことだった。くそ馬鹿対応式ならこの病院ででき、しかも問題は1問しかないから時間もかからない。やらない理由がなかった。
「是非お願いします」
「分かりました。では、別室で検査を受けて下さい」
医者の合図で、脇に待機していた女性看護師が「こちらへどうぞ」と、一つだけ机のある、自習室のような部屋へ案内してくれた。よし、俺はやるぞ。この「くそ馬鹿対応式ちのー検査」を見事解いて、馬鹿でないことを証明してみせる。大学だって出たんだ。高度な教育を受けているんだ。低く見積もっても人類全体で並みの評価は受けていいはずだ。
「制限時間は20分になります」
裏返した用紙が配られる。本当に1問しかなさそうだ。いける。いけるんだ。シャーペンの芯がちゃんと出るか周到に確認する。
「はじめっ」
勢いよく問題用紙を表へ向ける。お花のイラスト。問題文は「これはなんですか」とだけある。
嘘だろ。馬鹿にしているのか。いや、くそ馬鹿対応式なら仕方ないのか。ご丁寧に全部平仮名で問題文を書きやがって。イラストも他の要素を排除するかのように極力簡略化して描いてやがる。こんな問題を解くために病院にまでかかったかと思うとやり切れない気持ちが湧いてくる。何にせよ、ここ数日の心配はこれで終わりだ。20分もいらない。今すぐ解答してやる。
私は、解答用紙に大きく「ワニ」と書き、意気揚々と部屋を後にした。
身長、変わらず。体重変わらず。視力良好。血圧良好。血中コレステロール良好。ここまではいい。ただ、備考欄だ。よく見ると小さく「馬鹿の所見あり」と書いてあるではないか。
馬鹿の所見あり?どういうことだ?俺に馬鹿の可能性があるということか?去年まで何ともなかったのに?馬鹿ってそういうものなのか?というか馬鹿ってそもそも何だ。イディオット。ステューピッド。ステューデント。ハロー、ティーチャー。アイ、アム、ア、パン。
結局その日は全く仕事が手に付かず、早めに切り上げて帰宅した。健康診断で何かに引っ掛かったこと自体初めてだったし、それが馬鹿の所見となれば動揺しない方がおかしい。
一体どの検査がいけなかったんだろう。馬鹿だとどうなるんだろう。脳細胞が死にまくるのか。だとしたら怖いな。何かの間違いじゃないのか。いや、「馬鹿の所見あり」は確信を持った口調だ。間違いということはあるまい。「南方に大陸あり」みたいに断定しやがって。発見しやがって。くそ。くそ。どうすればいいんだ。
不安になった私は、週末に病院へ行ってみることにした。調べた範囲では、馬鹿を扱っている病院はないようだ。確かに、「風邪・インフルエンザ・糖尿病・高血圧・各種予防接種・馬鹿の診療を行っております」とあったら「ん?」と思ってしまうかもしれない。そこで、近所の小児科を選んでみた。小児科であれば、小児全般を診ないといけないわけだから幅広い症状をカバーしていると踏んだわけだ。馬鹿の所見があるにしては中々知恵を働かせたと思う。
予約の段階では「健康診断の結果で気になるところがある」とだけ伝えた。そして、週末。初診であったため軽く問診票を書き、医者と対面した。挨拶もそこそこに封筒から結果用紙を出し、「あの、ここの馬鹿の所見ありとはどういうことなんですか」と単刀直入に聞いた。
「ああー。馬鹿ですか。これはですね、頭が悪いということですね」
医者の答えは驚くほど簡単だった。頭が悪い。知能が低い。ガラス越しに餌のあることが分からず、何回でもぶつかってしまう。ガン、ガン、ガンガンガン、アレレー?
「最近頭の悪くなるようなことはされましたか?例えば、解けるパズルを解かなかったり」
「いえ」
「意味をよく知らない横文字を使ったりは?」
「特にしていません」
「自覚症状はどうでしょう。ジャムに手こずったりしましたか?」
「そんなことはないです」
「チャンピオンシップって言葉が急にかっこよく思えたりとかは?」
「心当たりないですね」
医者はメモしたカルテを見て一瞬考えてから、
「では、簡単な検査をしてみますか」
と言った。本格的に知能を調べるのであれば、「ウェクスラー成人知能検査」という成人用の全般性脳機能検査があるのだが、大きな病院の精神科に行かないと出来ないらしい。ただ、馬鹿なのか調べるだけであれば「くそ馬鹿対応式ちのー検査」で十分間に合うとのことだった。くそ馬鹿対応式ならこの病院ででき、しかも問題は1問しかないから時間もかからない。やらない理由がなかった。
「是非お願いします」
「分かりました。では、別室で検査を受けて下さい」
医者の合図で、脇に待機していた女性看護師が「こちらへどうぞ」と、一つだけ机のある、自習室のような部屋へ案内してくれた。よし、俺はやるぞ。この「くそ馬鹿対応式ちのー検査」を見事解いて、馬鹿でないことを証明してみせる。大学だって出たんだ。高度な教育を受けているんだ。低く見積もっても人類全体で並みの評価は受けていいはずだ。
「制限時間は20分になります」
裏返した用紙が配られる。本当に1問しかなさそうだ。いける。いけるんだ。シャーペンの芯がちゃんと出るか周到に確認する。
「はじめっ」
勢いよく問題用紙を表へ向ける。お花のイラスト。問題文は「これはなんですか」とだけある。
嘘だろ。馬鹿にしているのか。いや、くそ馬鹿対応式なら仕方ないのか。ご丁寧に全部平仮名で問題文を書きやがって。イラストも他の要素を排除するかのように極力簡略化して描いてやがる。こんな問題を解くために病院にまでかかったかと思うとやり切れない気持ちが湧いてくる。何にせよ、ここ数日の心配はこれで終わりだ。20分もいらない。今すぐ解答してやる。
私は、解答用紙に大きく「ワニ」と書き、意気揚々と部屋を後にした。