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出席番号1番 阿佐美景子

 私は昨日、夜遅くのスポーツニュースでルーニー選手を見たのです。
 頭が丸くて、胸板の厚い、レゴの人形みたいな人でした。彼は、あっという間にシュートを決めると、何か叫びながら、隅にある旗のところまで駆けました。膝を立てて、体を反らせてすべり込み、旗の手前で上手に止まると、それを拳でなぐりつけて、倒れた旗が跳ね返って戻るころ、彼はもうチームメイトに取り囲まれていました。

 保健体育の後藤先生、嫌いです。
 授業の前に早めにやって来て、廊下で女の子とおしゃべりしているところなんかが嫌いです。私のロッカーのそばで、おしゃべりをしないでほしいのです。
「阿佐美、マーくんとハンカチ王子だったら、断然マーくんの方がいいよなあ?」
 白い歯をこぼして楽しそうにしゃべっている時、きまって私を見つけては、それまで話していたらしい話題を振ってくるのも嫌いです。そんな時ばかりは、私の気に入りの名前のような名字が、少し汚らしいものに思えてきます。
 私が困って答えずにいると、周りの女の子たちが心配そうにするのも、ほんとは好きでないのです。
「そんな淋しそうに笑うなよ」
 一番嫌いなのはこんな物言いです。
「え、や、そんな笑い方してないですよぉ!」
 嫌いな人は、自分ごと嫌いになればいい。心に決めて大人ぶって返す言葉は、ますます彼を勢いづかせます。彼は私を救った気にでもなっているのでしょうか。

「受精卵が子宮内膜に着床することをもって、妊娠の成立とするわけだ」
 男子も女子もみな、恥じらいと道化で薄まった笑顔を浮かべて、彼の話を聞いていました。その塩梅が、みなそれぞれちがうだけです。津間さんは、こちらがひやひやするほど、彼の顔をじっと見つめていました。
 黒板には、彼が書いたいやに精緻な女性器の図があって、私は、あれは英検花子さんのものだ、とぼんやり考えていました。学校に提出する英語検定の申し込み用紙は、今もカバンに入っています。英検花子さん、彼女は提出期限を守るだろうし、きっと英検にも受かるでしょう。性器だって、あんなにすごく模範的。
 教室でちょっとした笑い声が起こって、私は我に返りました。
「だからな、鶴野、これはそういうことじゃないんだよ。やらしい、じゃないんだよ。やらしいって言う方が、やらしいし、いい加減なんだ」
 笑って言うと、彼は急に真面目な顔を作りました。みな、そっと息をのみました。
「セックスだって、もう他人事じゃないんだぞ」
 彼と私の視線が合いました。真面目な顔というのは、鉄でできていると思います。その顔が何か言いそうに動き出すのがわかって、私は、まさか、と心で言いました。そんなことはあるわけがない、と思いました。
「阿佐美、俺をぼーっと見てるけど、お前だって無関係じゃないぞ。考えてみろ。お前にとって、セックスって、どんなイメージだ」
 クラスはちょっと騒然としました。私の方を見る子も見ない子もいました。でも、私は別に、そういうことを聞いてはいけない子では無いのです。もっと、清水さんとか、唯川さんとか、そんなことに触れさせてはいけない子は沢山います。
「真面目な話だぞ」
 だから、こんなことで私を指名するのも、ありえないことではないのです。クラスの空気は、それを思い出したかのように、少しずつ静まっていきました。彼はそれをわかっていたのです。
 私は、猛烈に腹が立っていることに気づきました。今にも、立ち上がって、つかつか女の足取りで寄って行き、その真っ平らの頬をひっぱたいてやりたいと思いました。
 でも、そうしたら、私は私を好きになると思いました。嫌いな人をきっかけに、自分を好きになるなんて、良くないことだと思いました。
 私はなるべく、音を立てずに立ち上がりました。みんなの視線で体がふっとあたたまるのを感じます。大きく息を吸って、言いました。
「ルーニー選手がゴールを決めて、すべってくるんです」
 クラスはしんと鳴りました。そのまま黙っていたら、男子の誰かが笑い出したと思いますけど、私はすぐに続けました。
「サッカーのグラウンドの隅にある旗をしっかりつかんで、四つん這いになって、ドキドキしている裸の私。そこを目がけて、駆け寄ってきます。ルーニー選手は、歓びを爆発させて、何か叫んでいるけれど、歓声で何も聞こえません。彼はそのまま膝を立てたまますべりこむと、喉からそれが出てきそうなほどの勢いで、私の女性器に、自分の男性器を入れます。それで、私はセックスをして、妊娠します」
 真面目な鉄の皮が、少しゆがみました。先生、あなたの覚悟はその程度のもの。そして私もこの程度の人間。
「そのぐらい、歓びに満ちた、すごいものだといいなと思います」

出席番号2番 宇野道夫

♯198 新幹線

 青空に、いかにも夏休みらしい入道雲が立ち上っている。
 ダム…
 誰もいないはずの校舎の静寂にバスケットボールの音が響いた。
「あら…?」
 キャップをかぶり大きなリングのピアスをつけ、Tシャツにショートパンツとラフな格好の赤木晴子は、その音を聞きつけて、友人の藤井とともに体育館へ向かった。
 ガンッ
「おっと……」
 体育館では、アロハシャツを着た水戸洋平が一人シュートをうっていた。
「難しいもんだな…さっぱり入んねーや」
 リングを見上げ、控えめなリーゼントに整えられた頭をかく水戸。
「あ――っびっくりした!! 洋平君!!」
 体育館の重い扉から晴子が声をかけた。会うのは桜木花道の合宿以来だ。
「みんなはIH(インターハイ)に行ったハズなのに音がするから…」
「よ――っハルコちゃん。Tシャツを部室に忘れちゃってさ、泊まったとき」
 気さくに答えながら、水戸は手に持ったTシャツを晴子に示した。
「スゲ――響くんだな、この音」
 水戸は素朴に感心して、バスケットボールを一度ついた。
 ダム…
「ほんと」
 がらんとした体育館の天井は見上げるほどに高く、ここぞとばかりに音を反響させる。
「主がいないと静かだよね体育館て……」
 普段ならば、湘北バスケットボール部員たちが、怒号を飛び交わせ熱のこもった練習を行っているこの体育館。しかし、その喧噪や熱気が嘘のように静まりかえった今、晴子や水戸にはいかにも所在なく感じられた。
「ありがとう……」
 晴子が言った。
「あたしが言うのは変だけど…でもそういう気持ちなの。みんなが合宿につきあってくれたから桜木君、2万本もうてたと思うから」
「はは……バスケ経験者の目から見てどう? あいつは。順調に成長してる?」
 晴子はおもむろにキャップをとった。
「すごいよ!! 今回も見る見るうちに安西先生の教えたことを吸収していっちゃったもの。普通の人は各駅停車だけど――」
 晴子は、余裕綽々の高笑いを上げながら猛スピードで成長していく桜木花道を思い浮かべた。
「桜木君は新幹線って感じ。うらやましい」
 うらやましい。その言葉が水戸の心にひっかかった。晴子はそれを察して、水戸から目線を外し、少しさびしそうに語り始めた。
「男子のワンハンドシュートってかっこいいでしょう? 私も中学のときどーしてもやってみたくて特訓したの。お兄ちゃんに習って」
「ああ、両手だもんね、女子って。フツウ」
 水戸はぎこちなく、両手でシュートする格好をして見せた。
「そう…相当練習積んだのよ。引退するまでずっと」
 晴子の脳裏に、兄から指導を受けたあの日々がよみがえる。
「昼休みにやってたよね」
 その姿をずっと見てきた藤井がなつかしそうに言った。
「うん」
 晴子は再びキャップをかぶり、水戸からボールを受けると、フリースローラインの内側でボールを構えた。
 シュッ
 あの頃練習したことを一つ一つ思い出すようにゆっくりとワンハンドシュートを放つ。
 しかし、放物線を描いたボールはリングには届かず、手前でスウ…と落下した。
 ダム…
 口をへの字に曲げた晴子は、ゴールの下でむなしくバウンドするボールを恨めしそうに見つめた。
「3年間練習してこれよ…」
「まーまー」
 私なんか…ふるふると悔しさの自虐にひたる晴子を、水戸は慰めた。かける言葉もないとはこのことだ。
「桜木君は1週間で…ううん、1日で私なんか追いこしちゃった!!」
 明るく声を張った晴子だったが、すぐに、微笑混じりの流し目で水戸を見やった。
「少しだけ……嫉妬も感じるの」
 水戸はその言葉をいったん受け止め、晴子を見据える。
 そして、遠慮がちに人差し指を出した。
「ま――、人には向き不向きってあるからさ。ハルコちゃんはバスケには不向きだったんだよ」
「あ――っ、ヒド――イ」
 いつもの調子で大声を出した晴子は、そっぽを向いてふてくされてしまった。
「わかってるもん、そんなこと!」
「あ…ワルい」
 思わず謝り、水戸はそこで時計を見た。
「あ、オレそろそろいくわ。バイトだ」
 水戸にはこの後バイトがあった。
 Tシャツを肩にかけ、体育館からバイト先へ向かおうと歩きかける水戸。だが、ふいに感慨深そうな表情を浮かべ、ぽつりと言った。
「……しかしあの花道がインターハイ選手か…」
「桜木君にはきっと…バスケはぴったりだったんだよね」
 自分には無かったバスケットボールの才能。だからこそ、晴子はそれを持つ彼らを、心から応援することができた。













































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なぜぜとだぜぜ

 なぜぜはひどくきりょうがわるく、目なんかわゴムが放られて落ちたようにゆがんで毛羽立ったようにかさついていましたし、鼻はふくれてやっぱりがさがさしていつもてっぺんが破けていましたし、しみが体中にちらばってそれをぜんぶよせあつめたらせなかがすっかりうまるほどでしたし、内臓にもなんらかの疾患がありました。
 けれども、というのもおかしな話に思うほど、お兄さんのだぜぜはそんな妹をうんとかわいがってやりました。なぜぜのような妹がいたら、あなたもぜひともこんなお兄さんになってくださいと思うほど、かいがいしく、いつもひとりぼっちのなぜぜについて、そうでなくしてやっていました。
 なぜぜはいつもだぜぜにあれこれきくのでした。
 たとえばある日の朝ごはん。パンにさとうをまぶして、たんのからんだごろごろした声でいうのです。東大和市の、東大和市の青木鈴加ちゃんのような感じでした。
「おにいちゃん、なぜ、さとうは、あまいあじがするのかしら」
「なぜぜ、それはね。しょっぱいしおの反対だからだぜ」
 なぜぜはそれほどあたまもよくありませんでしたから、それで「はあ、はあ」と感心したようにうなっておしまいでした。またその言い方がけっこう鼻につくのでした。
 その日のばんごはん、スープに少々しおをいれるときにきくのです。
「おにいちゃん、なぜ、しおは、しょっぱいあじがするのかしら」
「なぜぜ、それはね。あまいさとうの反対だからだぜ」
「はあ、はあ」
 なぜぜはふかくなっとくして、どんなにしっかり力をこめてにぎっても、ところどころめくれあがった皮のせいでそう見えず、今にもぬけておっこちるのではないかとしんぱいになる木のへらでスープをかきまぜました。
 やがて、おいしそうなゆげがたちのぼって、のぞきこんだ鼻のてっぺんのやぶけのじくじくから、スープとおなじ黄色いしるがにじみはじめました。
「さあ、おにいちゃんにもやらせておくれ」
 せんこうはなびのようにしるの玉がそだってくるころあいを見てだぜぜが言うと、なぜぜはいつもにこにこわらって、おもしろいおもちゃを貸すようにへらをてばなし、台からぴょんととびおりて、かわりに上がっただぜぜの横にまわりました。そのため、だぜぜのシャツのすそのあたりは、いつも黄色くよごれていました。
「よいころあいだぜ」
 スープをのぞきこむだぜぜは、まったくもってびなんしで、ちょうど『探偵学園Q』の時の神木隆之介をもうちょっと精悍にしたような感じでした。気まぐれに季節を思い出しても、四季おりおりの花たばが手紙をそえてとどいていたものです。その気があればチンポのかわくひまもなかったでしょうが、だぜぜが妹のなぜぜにかまいっきりで相手にしないもので、今ではすっかりだれにもきょりをおかれるようになりました。
 AVとかもぜんぜん見ませんでしたが、麻美ゆまの病状を耳にすると、あんなに檄やせしていたのはそういうことだったのか、かわいそうに、病気に負けずがんばってほしい、ゆまちんのそこぬけに明るいえがおが見られる日をずっとずっとまっています、と心を痛めるやさしさも持ち合わせていました。
 秋のようきがいいころ、町にサーカスがやってくると、なぜぜとだぜぜは連れだって出かけました。外に出るときはいつも、年がら年中、真っ赤にうれきった目の痛むなぜぜのその手を、だぜぜが引いてやります。特に夜の暗さの中では、ほとんど見えなくなるのです。
 明るい電灯に照らされて、サーカスの行列に並んでいるあいだ、なぜぜは何度も聞きました。
「おにいちゃん、なぜ、みんな私を見ているの?」
 なるほど、赤い大きなテントからのびる列を通りすがる人はみんな、なぜぜに目を向けて、少し歩をゆるめたり、何度も何度も振り返ったりするのでした。そういう人と並んで歩く女の人が、とつぜんはっと息をのんで、それからおこったようにひじでつくのも、だぜぜは見ました。
「おにいちゃん、みんなが私を見るのはなぜかしら」
 だぜぜは何にも言いませんでした。ただ、だまって、じっと見るには明るすぎる、大きなはだかの電球をじっと見ていました。
 だぜぜが答えないのは初めてだったものですから、なぜぜは顔をますます真っ赤にはれ上げて、ごろごろぐずぐず泣きました。泣き声さえもうまく出ないものです。
 またそのせいで、まなざしの地獄と、そばだてた耳の企みは強くなっていきました。
「どうやら、サーカスはもうはじまっているようだぞ」
 誰かが笑って言うのを、たえまなく涙をこぼしながらもなぜぜは聞きつけました。
「おにいちゃん、サーカスがはじまったって」
 不安そうにますますごろごろ泣きじゃくるなぜぜに答えないで、だぜぜはやはり光の球を見ています。
「まだわたしもおにいちゃんも入場していないのに、なぜ?」
 それでもやはりなんにも言わず、やわらかい布でこしらえてやった手ぶくろごしになぜぜの手をにぎりしめただぜぜは、電球に向かってしんしんと目を見開くばかりです。
 やがて、たいへんようきなピエロがテントから出てきて、ガランガランとベルを鳴らしました。
 なぜぜはそれがおもしろく、すこしく元気になりました。
「お兄ちゃん、なぜ、あの人はあんなに大きな口やはなをしているの?」
 いよいよ列がうごき出しました。ピエロがつぎつぎお金をうけとり、かたにかけたポシェットにつっこんでいきます。
 なぜぜはちょこちょこ前進しながら、だぜぜのもった2人ぶんのお金とピエロをこうごに見ては、弁に問題があって血流の悪い心臓をデキデキさせて、ことのなりゆきを見守りました。
 いよいよピエロの前にきました。
 見当ちがいのほうにさしだされっぱなしだっただぜぜの手がいっこう寄ってこないのを見て、ピエロはめいっぱいうでをのばしました。それにつられた片足があがってもどるとき、ふんだくるようにお金をうけとりました。
 ちょっとねんいりに確かめてポシェットにしまったピエロは、そこでなぜぜに目をとめると、はりついたように動かなくなりました。
 それは実にちょっと、星がまたたくぐらいの間でしたが、ピエロはついで、あわてたように頭に手をやりました。いっしょに、しまったと言わんばかりの顔をつくって、つぎのお客に手を差し出して招き入れるように頭をいくぶん下げました。
 なぜぜはピエロをまじまじ見れたのと、自分たちのお金がポシェットにきちんとしまわれたことがうれしくてたまらないようでした。
 だぜぜはときどきつまずきそうになりながらふらふら前に進んで、ふたりはたくさんの人にぬかされながら、やっとすみのくらい席につきました。
 大きな空砲とともに始まったサーカスでは、人がくるくる回り回って、ライオンが火のついた輪をくぐり、大きなクマが玉を転がし乗り移り、いろんなそのたびに大きなはく手と声がつつみこみ、それにこたえたピエロがいちいちふかぶかと礼をして、みんなくすくす笑っていました。
 なぜぜはぽかんと口をあけてむちゅうになり、ときどき「ははあ」とうなりました。
 ときどき出てくる、ぴったりしたすてきなみどり色のふくを着た男の人がなぜぜの気に入りました。その人がひらりひらりと空中ブランコを飛びわたって、とちゅうでひゅっと落ちたときは息をのみましたが、いつの間にあったトランポリンでかえってきて、同じようにかえってきたブランコをつかんだので、力いっぱい手をたたきました。手袋のせいでぶふぶふ音やほこりがあがり、となりの人がいやな顔をするのも気づかないで、なぜぜはきげんよくはしゃいでいました。
「おにいちゃん、なぜ、あのライオンはおとなしく人の言うことをきくのかしら」
「おにいちゃん、なぜ、いすの上にいすがのっかって、その上につつみたいなものものっかるのかしらねえ」
「おにいちゃん、なぜ、あのみどり色の人、あんなにすいすいうごけるのかしら」
「おにいちゃん、なぜ、ピエロの口やはなはあんなに大きいかしらねえ」
 だぜぜは何も言わないで、サーカスの方を見ていました。なぜぜもサーカスの間ばかりは、返事がなくても気にしないようでした。でも、だぜぜの目が、ライオンも空中ブランコも追いかけないで真ん中におもたくしずんでいることにも気づきませんでした。
 いつまでも鳴りやまない大きなはく手といっしょにサーカスがはけて、ふたりはいちばん最後にテントを出ました。だぜぜはなんどもつまずき、ぶつかりましたが、なぜぜの手ははなしませんでした。
「おにいちゃん、なぜ、いつものように歩かないの」
 だぜぜはふらふら足を運ぶのをやめないで、答えました。
「なぜぜ。それはね、もう、ぼくにはぜんぜん目が見えないからだぜ」
「なぜ、目が見えないの?」
「さっき、サーカスが始まる前、ずっと、今そこにある明かりを見つめていたから、見えなくなってしまったんだぜ」
 ふたりはぴったり同時に立ち止まりました。ちょうど頭の上にその電球がありました。
 そして、なぜぜが目を向けるのを待っていたように、ふっと消えました。おかげで、なぜぜにもほとんどまわりが見えなくなってしまいました。テントのまくにすかされた光がひしひし足下にはいよってくるようにこそばゆいのです。
「なぜ、そんなもの、じっと見ていたの?」
「いやなことがあったからだよ」
「いやなことなんて、なぜあったの?」
 だぜぜは答えず、そのしずかなしずかな時間のうちに、なぜぜの目になみだがあふれました。
「もう、治らないの?」
「治らないかも、しれないんだぜ」
 なぜぜの目からとうとうなみだがこぼれて落ちる、ぴちゃんという音をだぜぜは聞きつけました。苦しそうに、鼻をふくらませてやっと言いました。
「なぜぜ、いいかい。これでよかったんだぜ。わるいものを見たくなけりゃ、いいものを見るのもあきらめなけりゃいけないんだぜ」
 なぜぜは返事もうなずきもせず、手ぶくろをおっぽりだして、ひどくあれた肉色の手指を、だぜぜのまぶたの上におきました。ごおごお音がするような気がして、びっくりしたように手をはなしたなぜぜは、暗いだぜぜの顔のほうを見ました。
 なぜぜにはわかりませんでしたが、顔を合わせたふたりは、まるでかがみのようでした。今や、だぜぜの顔は、目なんか少し大きめのわゴムを放って落ちたようにゆがんで、がさついていましたし、鼻はふくれてやっぱりがさがさしててっぺんが破けていましたし、体中しみがないところの方が少ないのでした。多数の内臓に重篤な疾患が頻発し、あげく大痔主でした。
 加えてだぜぜは、憔悴しきって、明らかに思い詰めて、もうほんとうに、今にも死んでしまいそうに見えました。
 なぜぜは何にも言うことができずにいました。
 そのうち、テントの明かりも消え失せて、どこにも行けないふたりは闇にまぎれてしまいました。
 そのすぐ横を、ピエロがむろん気づきもしないで通り過ぎます。肩にかけたポシェットは、たっぷりお金をすってふくらんでおります。
「どうしてゆまちんなんだ……」
 ピエロはめちゃくちゃ驚いて振り返りましたが、やはりそこに誰もいません。
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