トンネルG-SHOCK(D待ち女の子)
結婚報告をしに来た兄夫婦に会いたくないのでドトールに3時間こもって書きました。みんなもっとマンガや写真入りの記事が読みたいと思うので(僕もそうです)、申し訳ない気持ちはあります。
高架に掘られた滅多に人が通らない暗いトンネルは、車が一台と人が一人やっと通れるぐらいの狭さで、電車が通るたびに何も聞こえなくなる。取ってつけたような段差で区切られた歩道には雨も降らないのに水がたまり、一つだけある赤い電灯の光を一日中ずっと鈍く反射させていた。
「屋根寄高広(やねよりたかひろ) あく手会場」
朝、壁に白いチョークでそう書いた。その下に、捨ててあった机と椅子を持ってきた。もう夕方になっていた。
昼は外よりもトンネルの方が暗いのに、今はトンネルの方が明るい。赤い光が、机の傷にはじかれて目に飛び込んでくる。高広はわざとそれをじっと見た。しばらくそうしておいて、
「目が、目が」
とかなんとか言いながらそろそろ帰ろうと思っている。今日もまたクソみたいな一日だった。
電車が頭上を通る音でトンネルはいっぱいになり、なぜか少し安心して目を閉じる。すると目の前に緑の円が現れる。
「ねえ」
驚いた。轟音の中だって透き通るその可憐な声。高広は顔を上げた。
でも、肝心の顔は目に焼き付いた光の輪のせいで塗りつぶされていた。その輪を外そうと、中空に目をやると、視界の端に顔がのぞいたような気がする。でもまた見ようとすれば隠れてしまう。目の隙に入った格好でなんとなく女の子だとわかり、高広は下を向いた。いい匂いがした。
トンネルを吹き抜ける風が急に涼しく感じられた。その風でスカートが揺らぐのがわかった。
「握手会場なんでしょ、握手してよ」
ちょっとふざけたような声と同時に、つるつる赤く光る細い腕がすっと伸びてきた。黄色いG-SHOCKは細い手首には少しゆるくて、くるりと半分回転した。
自分の前に差し出された、半端に開いて握り返すための柔い握力をたたえた掌を見て、高広はどぎまぎしてしまって、やや勃起しながら後ろの字を振り返った。見えないけれど、確かに「あく手会場」と書いた。汚い字で。
向き直って、おそるおそる握手した。指を触れ、そっとにぎる。女の子の手は小さく、やわらかく、指はしなやかにのびている。
微妙に手を動かすと、ふれ合った手指がやわらかくへこみあってぴったりくっつくのがわかった。細い手のどこにこんな弾力が……。
「イスにのぼって生卵を落としても割れないんじゃ……」
思わず感想をもらしながらも、手と手は一つになって、伝え合ったあたたかな熱をさらにゆっくり増やしてゆく。脈が聞こえそうだ。
「どうにかなっちゃいそうだな……」
高広は引っ込み思案のくせに孤独に慣れすぎて開き直っているようなところがあるので、中と薬の指を曲げて、相手の掌を触れるか触れないかの手つきで撫ぜ上げた。
「ん」
第三楽章。ピアノを弾くように女の子の手が跳ね上がる。高広の指はその動きを本能的に追いかけて離さない。自覚のないあせりにも似た性欲がちょっと怖い。
しかし女の子にもそういう興味はある。相手の指も遠慮がちにゆっくりと、同じように高広の掌へと滑り降りてきた。
不意を打たれた高広は、心の奥のおそらくちんちんとつながっている部分にド級のときめきの群れ(GOOD・GREAT・PERFECT)を感じる。負けじと指をはわせる。
「んんっ……」
女の子のそんな声を聞くのは初めてだったので、高広は凄い勃起した。
それから二人はもう夢中になって少し大胆に息を荒げ、手と手を、指と指を互いにこすらせた。
ふいに、電車の通る大きな音で目が覚めた。
汗で濡れた手はしびれ、机の上には幾多の水滴が落ちていた。女の子のG-SHOCKは汗でびしょ濡れだったが、防水加工のおかげで時計は元気に18時30分を表示していた。15分は握手をしていただろうか。
電車が通り過ぎてしんと静まりかえったトンネルは、幼い二人の息づかいだけで満たされていた。
糸を引くように手が離れ、握手が終わった。
思わず相手の顔を見上げると、もう光のあとは消えていた。でも顔はわからない。女の子はお面をつけていた。頬の白いなだらかなフォルムが赤く光っている。少しのぞいた額、細い髪の整った生え際にはうっすら汗がにじんでいる。
「君は……」
思わず切らせていた息を止めて、高広は言った。
「これ、知ってる?」
女の子は弾む吐息を隠すように大きく息を吸ってから、自分の顔を指さした。
「……ドナルド?」
「デイジーダック知らないの?」そこでまた息を吸う。「ドナルドの彼女」
彼女。その言葉に高広は身をかたくした。
「そういえば聞いたこと、ある……」
汗で湿った掌を自分の親指でなじませながら高広は言った。これは僕の汗だけではないはずだ……。
「もう帰る」
勢いよくきびすを返した女の子のスカートが夜風の助けにひるがえり、机の上をかすめた。
思わずそれを捕まえようと伸ばした高広の手は、机をたたいた。それだけの間にもう女の子は外の闇に消えていた。大きく鼻で息を吸うと、まだその香りが感じられる……。
「なんだろうこんな気持ちは……」
高広は机についた手をじっと見て、じりじりと自分の方に寄せた。同時にゆっくり立ち上がり、目を閉じる。そのまま、机の上の滴を拾って薄く伸ばしながら手をちんちんに向かわせる。
再びビリビリと電車の迫る音がし始めた。この電車には父が乗っているかも知れない……きっと乗っている……。音はどんどん大きくなる。もうこの体には何も聞こえない。
そして、ついにびしょびしょの手がちんちんに到着した。高広はびっくりした。
「う、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
かつてないほどの快感の塊、エクスタシーのおだんごがそこにいた。
あせった高広はちんちんを一睨み、そこ目がけて振りかぶり、チョップを一発見舞った。
塊は爆ぜ、どっと音がした。そして、さっきまでそこにいた女の子の空気を求めて何かが押し寄せてくる。
電車は轟音とともに脳天の真上を駆け抜け始めた。
高広は叫んだ。
「イクーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
イクの初めてなのに、そんな言葉知らないのに、高広は獣のようにそう叫んでいた。
その声はトンネルいっぱいにかき消されながら響き渡り、快感を追いかけて勢いよく前に出た腰は机を派手にはじき飛ばしていた。
せっかくそんな記念すべき時なのに、傲慢なスピードでやってきた白い乗用車がトンネルを抜けようとしたのだ。
宙に放り出された高広の初めての衝動という名の古い机は、ピカピカ光った白い車のフロントガラスに脚から飛び込んだ。沈みこむようにガラスが割れて、コントロールを失った車は壁に激突、耳をつんざく音と火花を激しく噴き上げながらスピードを失わずに横転し、トンネルから苦しそうに勢いよく飛び出した。
握手をした女の子の全てを思い出し身をよじらせながら、高広は呆けた顔でその一部始終を見ていた。
車から灰色の煙が立ち上る頃には、もうしびれるような快感は収まっていた。
ひっくり返っているが意外に原型をとどめた白い自動車の窓から、ひねり上げられて上を向き、口から血を流した知らない中年男の首が見える。さらにその隣からだらりと別の者の手が出ていた。
その手。さっきの女の子のものとはぜんぜん違う、ふくれて丸い腕、太い指。下品に赤く塗られた爪から、さらに血が滴り落ちている。高広にはそれが母の手だとすぐにわかった。
「なんだ、今の…………」
そう言って高広はズボンの上から、ぬめりで貼りつく冷たいちんちんに手をやった。母の日だった。
高架に掘られた滅多に人が通らない暗いトンネルは、車が一台と人が一人やっと通れるぐらいの狭さで、電車が通るたびに何も聞こえなくなる。取ってつけたような段差で区切られた歩道には雨も降らないのに水がたまり、一つだけある赤い電灯の光を一日中ずっと鈍く反射させていた。
「屋根寄高広(やねよりたかひろ) あく手会場」
朝、壁に白いチョークでそう書いた。その下に、捨ててあった机と椅子を持ってきた。もう夕方になっていた。
昼は外よりもトンネルの方が暗いのに、今はトンネルの方が明るい。赤い光が、机の傷にはじかれて目に飛び込んでくる。高広はわざとそれをじっと見た。しばらくそうしておいて、
「目が、目が」
とかなんとか言いながらそろそろ帰ろうと思っている。今日もまたクソみたいな一日だった。
電車が頭上を通る音でトンネルはいっぱいになり、なぜか少し安心して目を閉じる。すると目の前に緑の円が現れる。
「ねえ」
驚いた。轟音の中だって透き通るその可憐な声。高広は顔を上げた。
でも、肝心の顔は目に焼き付いた光の輪のせいで塗りつぶされていた。その輪を外そうと、中空に目をやると、視界の端に顔がのぞいたような気がする。でもまた見ようとすれば隠れてしまう。目の隙に入った格好でなんとなく女の子だとわかり、高広は下を向いた。いい匂いがした。
トンネルを吹き抜ける風が急に涼しく感じられた。その風でスカートが揺らぐのがわかった。
「握手会場なんでしょ、握手してよ」
ちょっとふざけたような声と同時に、つるつる赤く光る細い腕がすっと伸びてきた。黄色いG-SHOCKは細い手首には少しゆるくて、くるりと半分回転した。
自分の前に差し出された、半端に開いて握り返すための柔い握力をたたえた掌を見て、高広はどぎまぎしてしまって、やや勃起しながら後ろの字を振り返った。見えないけれど、確かに「あく手会場」と書いた。汚い字で。
向き直って、おそるおそる握手した。指を触れ、そっとにぎる。女の子の手は小さく、やわらかく、指はしなやかにのびている。
微妙に手を動かすと、ふれ合った手指がやわらかくへこみあってぴったりくっつくのがわかった。細い手のどこにこんな弾力が……。
「イスにのぼって生卵を落としても割れないんじゃ……」
思わず感想をもらしながらも、手と手は一つになって、伝え合ったあたたかな熱をさらにゆっくり増やしてゆく。脈が聞こえそうだ。
「どうにかなっちゃいそうだな……」
高広は引っ込み思案のくせに孤独に慣れすぎて開き直っているようなところがあるので、中と薬の指を曲げて、相手の掌を触れるか触れないかの手つきで撫ぜ上げた。
「ん」
第三楽章。ピアノを弾くように女の子の手が跳ね上がる。高広の指はその動きを本能的に追いかけて離さない。自覚のないあせりにも似た性欲がちょっと怖い。
しかし女の子にもそういう興味はある。相手の指も遠慮がちにゆっくりと、同じように高広の掌へと滑り降りてきた。
不意を打たれた高広は、心の奥のおそらくちんちんとつながっている部分にド級のときめきの群れ(GOOD・GREAT・PERFECT)を感じる。負けじと指をはわせる。
「んんっ……」
女の子のそんな声を聞くのは初めてだったので、高広は凄い勃起した。
それから二人はもう夢中になって少し大胆に息を荒げ、手と手を、指と指を互いにこすらせた。
ふいに、電車の通る大きな音で目が覚めた。
汗で濡れた手はしびれ、机の上には幾多の水滴が落ちていた。女の子のG-SHOCKは汗でびしょ濡れだったが、防水加工のおかげで時計は元気に18時30分を表示していた。15分は握手をしていただろうか。
電車が通り過ぎてしんと静まりかえったトンネルは、幼い二人の息づかいだけで満たされていた。
糸を引くように手が離れ、握手が終わった。
思わず相手の顔を見上げると、もう光のあとは消えていた。でも顔はわからない。女の子はお面をつけていた。頬の白いなだらかなフォルムが赤く光っている。少しのぞいた額、細い髪の整った生え際にはうっすら汗がにじんでいる。
「君は……」
思わず切らせていた息を止めて、高広は言った。
「これ、知ってる?」
女の子は弾む吐息を隠すように大きく息を吸ってから、自分の顔を指さした。
「……ドナルド?」
「デイジーダック知らないの?」そこでまた息を吸う。「ドナルドの彼女」
彼女。その言葉に高広は身をかたくした。
「そういえば聞いたこと、ある……」
汗で湿った掌を自分の親指でなじませながら高広は言った。これは僕の汗だけではないはずだ……。
「もう帰る」
勢いよくきびすを返した女の子のスカートが夜風の助けにひるがえり、机の上をかすめた。
思わずそれを捕まえようと伸ばした高広の手は、机をたたいた。それだけの間にもう女の子は外の闇に消えていた。大きく鼻で息を吸うと、まだその香りが感じられる……。
「なんだろうこんな気持ちは……」
高広は机についた手をじっと見て、じりじりと自分の方に寄せた。同時にゆっくり立ち上がり、目を閉じる。そのまま、机の上の滴を拾って薄く伸ばしながら手をちんちんに向かわせる。
再びビリビリと電車の迫る音がし始めた。この電車には父が乗っているかも知れない……きっと乗っている……。音はどんどん大きくなる。もうこの体には何も聞こえない。
そして、ついにびしょびしょの手がちんちんに到着した。高広はびっくりした。
「う、うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
かつてないほどの快感の塊、エクスタシーのおだんごがそこにいた。
あせった高広はちんちんを一睨み、そこ目がけて振りかぶり、チョップを一発見舞った。
塊は爆ぜ、どっと音がした。そして、さっきまでそこにいた女の子の空気を求めて何かが押し寄せてくる。
電車は轟音とともに脳天の真上を駆け抜け始めた。
高広は叫んだ。
「イクーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
イクの初めてなのに、そんな言葉知らないのに、高広は獣のようにそう叫んでいた。
その声はトンネルいっぱいにかき消されながら響き渡り、快感を追いかけて勢いよく前に出た腰は机を派手にはじき飛ばしていた。
せっかくそんな記念すべき時なのに、傲慢なスピードでやってきた白い乗用車がトンネルを抜けようとしたのだ。
宙に放り出された高広の初めての衝動という名の古い机は、ピカピカ光った白い車のフロントガラスに脚から飛び込んだ。沈みこむようにガラスが割れて、コントロールを失った車は壁に激突、耳をつんざく音と火花を激しく噴き上げながらスピードを失わずに横転し、トンネルから苦しそうに勢いよく飛び出した。
握手をした女の子の全てを思い出し身をよじらせながら、高広は呆けた顔でその一部始終を見ていた。
車から灰色の煙が立ち上る頃には、もうしびれるような快感は収まっていた。
ひっくり返っているが意外に原型をとどめた白い自動車の窓から、ひねり上げられて上を向き、口から血を流した知らない中年男の首が見える。さらにその隣からだらりと別の者の手が出ていた。
その手。さっきの女の子のものとはぜんぜん違う、ふくれて丸い腕、太い指。下品に赤く塗られた爪から、さらに血が滴り落ちている。高広にはそれが母の手だとすぐにわかった。
「なんだ、今の…………」
そう言って高広はズボンの上から、ぬめりで貼りつく冷たいちんちんに手をやった。母の日だった。
脳とピアノとボストンバッグ
「それで、いつ引っ越すの?」
「今度の土曜日です」
「そう」
マリちゃんのお母さんはちょっと沈んだ声を出した、すると、お父さんも小さな声でつぶやいた。
「マリのやつ……」
そして、テーブルの上に置いてあるボストンバッグの中にいるユミコに向かって言った。
「ごめんね」
あまり二人がやさしいのでユミコはもう少しで涙がこぼれそうになった。
ユミコのお父さんも昔はやさしかった。色々なところに、肩からさげて連れて行ってもらった。もちろんお母さんも妹も一緒に。キャンプにも行った。ディズニーランドにも行った。ミッキーにボストンバッグを持ってもらった写真は今でも大切に持っているし、ビッグサンダーマウンテンのロッカーにも入った。家族4人でいるのが、何より楽しかった。
でも、ある日、お父さんは脳みそだけの姿になってしまった。いつものようにユミコが道行く人に家まで運んで行ってもらうと、アパートの101の部屋の前にカープのキャップをかぶった脳みそが置いてあった。お父さんだった。会社はすぐに首になった。そのうち車がなくなってしまった。
お母さんはスーパーでパートをしていた。お父さんが脳みそになって働かなくなってからパートの時間を増やしたけれど、それでも生活ができなくなってしまった。
「どうして脳みそだけなの?」
あるとき、ユミコがボストンバッグの中からたずねると、お父さんはどういう仕組みなのか答えた。
「生きていくにはな、脳みそがあれば十分なんだよ」
「でも、それじゃ何にもできないよ……」
「お前だって、ボストンバッグの中で脳みそだけかも知れないぞ……なんと言ってもお父さんの子供だからな」
お父さんはテレビの前にある赤い革張りの下品なソファーの角に、埃や食べかすまみれで転がっていた。横に難しそうな本が広がっていた。ツバが本の方を向いているから、きっと読んでいるのだとわかる。
「ネズミの脳みその快楽を感じる部分に電極を埋め込んでだな、そこに電気を流すためのボタンを与えると、自分で死ぬまで押し続けるらしいぞ」
「お父さんはネズミなの? 違うじゃん」
そんな会話にまったく興味がないように、妹はあぐらをかいてテレビと向き合って背中を向けていた。もうなんにも関わりたくないというふうに。
半月ほど前、お母さんとユミコと妹の三人だけでおじいちゃんとおばあちゃんの住む福島県に行くことになった。お父さんがどこで暮らすのかはわからない。知りたかったがその話になるとお父さんもお母さんもすぐ話をそらしてしまう。そうしているうちに来週は引っ越しという日になった。ほんとうは夏休みまでは東京にいられるということだったのだけれど、どうやら家賃が払えなくなってしまったらしいのだ。
マリちゃんはクラス替えをして初めてできた友達だった。ユミコのボストンバッグには革がハゲている部分がある。マリちゃんはそこをジロジロ見たりしなかったし、ほかの子のように「そこ、どうしたの?」ときくこともなかったし、色マジックで塗りつぶそうともしなかった。マリちゃんには少し自分勝手なところがあったけれど、ユミコにはその思いやりがあるだけでよかった。だから、ユミコは誰よりも先にマリちゃんに引っ越すことを話していた。すると、この日曜にうちで一緒に遊ぼうと誘ってくれたのだ。
ユミコはそれがうれしかった。これまでに何度、マリちゃんの家に来たのかわからない。いつもきれいなお母さんが迎えてくれて、やさしくしてくれた。お店屋さんの洋菓子とすてきなカップに注がれた紅茶が出てきた。マリちゃんはそれを、そっぽを向きながらファスナーの隙間に押し込んでくれた。そのうち、最初は遠巻きに吠えるだけだった飼い犬のチャップマンが走り寄ってくるようになった。やがて吠えてうなって引っ張り回すようになった。あるとき、中から「おい!」と叫ぶと、飛び退いて中川家の兄がやるみたいに鳴くのを止めた。それから従順になり、部屋までユミコを運ぶのはチャップマンの役目になった。息づかいがすごく近かった。
マリちゃんの家に来ることが、ユミコの一番の楽しみだった。それなのに、マリちゃんはミドリちゃんの家に行ってしまった。ユミコはテーブルの上に置かれて、マリちゃんのお父さんとお母さんに囲まれている。今日、チャップマンはいつもの奥の部屋にいて出てこないらしい。マリちゃんがいないからだろうか。
二人に見られているのは恥ずかしかったので、ユミコは言った。
「すみません、日向に置いてもらっていいですか」
「あら、寒かったかしら」
「毛布でもかけようか? ハロゲンヒーターもある」
お母さんもお父さんも、がたがたと腰を上げて立ち上がりかけた。
「大丈夫です。日向が好きなんです。今日はお天気もいいし」
「じゃあ」
お父さんが軽々とユミコを持ち上げた。当たり前だけれど、チャップマンがくわえて運ぶよりずっと心地が良かった。やがて床に置かれて、体の左側がじんわりと暖かくなった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。テレビでもつけようか?」
すぐに妹の姿が思い浮かんだ。ユミコの頭がチクリと痛んだ。
「いえ、大丈夫です」
「音楽はどうかしら?」
少し遠くから、お母さんの声が聞こえた。
「ユミコちゃん、ピアノを習っていたでしょう?」
「いえ、習っていたわけじゃないですけど……学童で教えてもらって練習しただけです」
「あら、そうなの。時々うちに来て弾いていたじゃない。聴いて、きっと習っていると思ってたわ。あんなに上手なのに、そうなの」
ユミコは体の右側も暖かみが快く広がるのを感じた。
マリちゃんの部屋にあるピアノはユミコの憧れだった。時々、マリちゃんにバッグの持ち手を持ってもらって、学童のおばさんと同じように鍵盤の上へ上げ下ろしてもらった。その音をお母さんは聴いたのだろう。上手だなんて、ウソ。そんなのわかっていた。でも、ユミコはうれしかった。
「マリはいくら練習しても上手くならないからな」
「最近じゃ、すっかり飽きちゃったみたいで」
確かに、ユミコはマリちゃんがピアノを弾いているのを見たことがなかった。お父さんとお母さんの残念そうな声を聞くと、自分まで悲しくなった。そして、マリちゃんがなんだか憎らしくなった。
もしも私が……そう考えた時、軽やかなピアノの音が聞こえてきた。
だからユミコにはまるで、自分がそれを弾いているように思えた。マリちゃんの部屋のピアノの上で、上下するボストンバッグ。弾かれた鍵盤の奏でる優雅で楽しげな音色。
ユミコは思わずつぶやいた。
「すてきな音楽……」
「そうでしょう!」
お母さんの声がユミコのいる窓際まで弾んできた。
「マリには全然わからないのよ。AKBばっかり聴いて、興味がないんだからまいっちゃうわよね。ユミコちゃん、今、シュークリームを用意するからね」
それから、お母さんと話をしながら、ユミコはマリちゃんのお父さんにストローを差し込んでもらってアイスティーを飲み、一口サイズのシュークリームを食べた。ときどきユミコの家にお母さんが用意しているような袋に何個も入っているものでない、とても上品な味がした。
「それにしても遅いな」
ユミコとお母さんの話が弾むほど、お父さんは少しずついらだってきているようだった。
「さっきミドリちゃんの家に電話したんだけど、もうだいぶ前に出たそうよ」
「忘れてるのかな。しょうがないな」
「もしかしたら、ユミコちゃんの家に行ったんじゃないかしら」
お母さんはマリちゃんをかばって言った。
でも、そんなことが絶対にないのはユミコにはわかっていた。マリちゃんはユミコの家に来たことがないし、もしかしたら家の場所だって知らないかもしれない。
それでもユミコは二人のために言った。
「私、電話かけてみます。お借りしてもいいですか」
子機を差し込んでもらい、家にかけた。呼び出し音が12回も鳴って、ようやく妹が出た。お母さんは日曜もパートでいないし、お父さんは脳みそだ。
――もしもし。
間延びした声。マリちゃんが訪ねてこなかったか聞くと、妹は面倒くさそうに言った。
――誰も。
「そう」
答えてすぐに電話が切れた。
「うん、ありがとね。じゃね」
少し一人でおしゃべりしてから通話を切るボタンを押して、バッグから子機の頭を出した。
「やっぱり行ってないみたいです。お電話、ありがとうございました」
電話がすぽりと抜けて、お父さんの声がすぐそばで聞こえた。
「マリも、薄情なやつだ」
「何してるのかしらね。確かにうっかりすることは多い子だけど……もしかしたら事故にあったのかもしれないし……」
重苦しい雰囲気に耐えきれなくなって、ユミコは口を開いた。
「あの、ベランダに出てもいいですか」
マリちゃんの家は12階にある。来るといつも景色が見たかった。でも少し恥ずかしくて、いつまでも見ることはできなかった。珍しくもなんともないというふうに、マリちゃんがさっさと引っ込んでしまうからだ。
でも、今なら頼むことができた。それに、少しの間、自分はいない方がいいような気がした。理由を言うと、お父さんがすぐにひょいとユミコを持ち上げてくれた。
お父さんは気を利かせて、備え付けの物干し竿を一番高いところにセットしてくれた。それでも、背の高いマリちゃんのお父さんは背伸びもせずに楽々とユミコをつりさげることができた。そして、大きな洗濯ばさみで持ち手をとめてくれた。
「あの、ありがとうございます」
「何かあったら呼んでね。マリが見えるかもしれないし」
ユミコはお父さんに下から見られていることが恥ずかしかった。お父さんはそれを察したのか、すぐに、窓を少し開けたままにして部屋に戻っていった。
ファスナーを少し開けて階下を見下ろすと、小さな町が見えた。自分の家とは反対側だが、見えなくてよかったとユミコは思った。エレベーターも、車も、ピアノもおしゃれなカップもない、高級なシュークリームもない。ドアを開けたらすぐ道路だし、犬も飼っちゃいけないし、お母さんも滅多にいない、脳みそだけのお父さんと、テレビを見てる妹がいるだけの、やることなんて何にもない、あんな家なんか……。
その時、ガラス窓がコンコンとたたかれた。ユミコはギクリとして、少し揺れた。マリちゃんのお母さんだった。
「今、おじさんが車で捜しに行ったから、もう少し待っていてね。寒くない?」
「はい、大丈夫です」
「何か欲しいものがあったら、遠慮なく言ってね」
「はい、ありがとうございます。でも大丈夫です」
「ほんとに、何もなくて早く帰って来るといいけど……」
やさしいお母さん。やっぱりマリちゃんが心配なのだろう。
自分がいつもここから景色を見て、ピアノを弾けたらどんなにいいか。チャップマンを呼べばどこにだって移動できる。やさしいお父さんとお母さんに囲まれて……。一緒に音楽の話をして、お母さんを喜ばせてあげられる。マリちゃんは、お父さんは平日は仕事でいないけれど、日曜は一緒に遊んで勉強を教えてくれると言っていた……。マリちゃんはそれがちょっとウザいと言っていたけど、私なら大歓迎だ。こんなすてきな家族をマリちゃんは怒らせている。心配させている。ピアノだって弾かないし、約束をすっぽかして、恥をかかせている。私だったら、そんなことはしないのに……。私がこの家の子ならよかったのに。そして、反対にマリちゃんが私の家の子だったら、テレビ好きな妹とも話があったはずだし、お父さんは脳みそだけで何も言わない。それなら全部よかったのに……。
でも、マリちゃんは本当にどうしたんだろう。ユミコは県境の川を渡る電車を見ながら思った。もしかしたら、お母さんの言うとおり、帰る途中で事故にあったのかもしれない。もしかしてもしかしたら、ユウカイされてしまったのかもしれない。そして、ユウカイされたまま帰ってこないかもしれない。どこか遠いところに連れていかれてしまうか、殺されてしまったりするのかもしれない。
そう考えて、ユミコは自分がマリちゃんが死ぬことを望んでいるみたいだと気がついた。
そして、こう思った。そんなことを望んでいると、ほんとうにそうなってしまうかもしれない。やさしかったころのお父さんが言っていたことがある。いいことは望んでもほんとうにならないけど、悪いことは心の中で思っているだけでほんとうになってしまうんだよ。わたしがマリちゃんのことをユウカイしされたり事故にあったりすればいいと望んだりしていると、ほんとうにそうなってしまうかもしれない。そんなことを考えるのはやめよう。
遠くに小さく見える人は、それでも人とわかって動いていた。マリちゃんがいればすぐにわかるだろう。他の人じゃわからなくても、マリちゃんだったらすぐにわかる。息せき切って走ってくる姿が見えたら、私はどう思うだろう。ユミコは誰もいない交差点を見ながら考えた。
約束を思い出したマリちゃんが一目散に走っている。左右も見ないで、まっすぐ歩道から道路に出て行く。するとそこに……。ボストンバッグの中で、急に心臓の鼓動が速く大きくなった。ダメだったら! こんなことを考えていてはいけない。
「ユミコちゃん、マリ、いたって!」
後ろからお母さんの声がして、ユミコはハッとした。それから窓の開く音がした。
「本当ですか? よかった!」
ユミコはボストンバッグから叫んだ。鼓動はさらに高鳴っていた。
「マリちゃん、どこにいたんですか?」
お母さんは少しほっとしたように答えた。
「あの子、本屋さんでマンガを立ち読みしてんですって。ホントにしょうがない……」
きっとあそこだ、とユミコは思った。ゲームやコミックを安く売っているあの店だ。わたしが教えてあげたのに、どうして店に入ったときにわたしのことを思い出さなかったんだろう。どうして今日のこの約束を思い出さなかったんだろう。
ユミコはもう、ここにいる必要は無い気がしていた。どんなふうにマリちゃんと顔を合わせればいいのかわからなかった。ボストンバッグの中だからって、考え事を隠せるほどお互いに知らないわけじゃないし、もうお別れを済ませているような今の気分がうしろめたかった。
「私、帰ります」
今日ここに来たのは、マリちゃんのお母さんと話すためだ。素敵なおやつを食べて、景色を見るためだ。することは全部やった。なら、もういい。
「遅くなると、家族も心配するし」
言ってから、心配する家族なんていないとユミコは思った。自分に言い聞かせるようにまた繰り返した。心配する家族なんて……。
「でも、もう来るから待っていてくれないかしら。ね? ユミコちゃん」
「いえ、私、帰ります」
「帰ってきたら送っていくから、マリに謝るだけでもさせてもらえないかしら」
こっそりユミコはマリちゃんのお母さんの顔を見た。困り顔だった。マリちゃんのお母さんだって、私がマリちゃんと顔を合わせたくない理由がわかっているはずだ。だって、最後の約束を忘れられたんだから。
「それにユミコちゃん、一人で帰れないでしょ」
「外に出て、歩いてる人に渡してもらえれば大丈夫です。いつもそうしてますから」
「でも、そういうわけにもいかないわ」
「じゃあ、チャップマンに送っていってもらいます!」
ユミコはムキになって自然と声を荒げていた。自分でも無理を言っているとわかった。
「チャップマンは……」
会話のリズムが止まった。妙になって、ユミコも息をこらした。
「このあいだ死んじゃったのよ」
今日は、マリちゃんがいないから迷惑をかけないように奥の部屋にいるんだと思っていた。
「いつ?」
「二週間前に。突然だったの」
マリちゃんは、そんなことも言ってくれなかった。ユミコは重苦しい口調で言った。
「やっぱり帰ります。本当に」
ゆっくり、でもなんとなくきっぱりした迷いのない動きでユミコは物干し竿から外されて、マリちゃんのお母さんに運ばれた。
玄関のドアを開けてエレベーターに乗る。一歩ごとにかたく揺れながら、ユミコはボストンバックごと震えていた。マリちゃんのお母さんにそれが伝わってしまうか心配だった。マリちゃんのお母さんは今、私をどう思っているだろうか。そもそも、私のことを考えているだろうか。それともやっぱりマリちゃんのことを考えているだろうか。
マリちゃんに鉢合わせはしないかとユミコがこっそり覗き見ると、広い玄関の前にバイクが待っていた。マリちゃんのお母さんはボストンバッグを渡した。
「いつもありがとうございます」
バイクには大きく英語の言葉が書いてあり、小さく「バイク便」とあった。マリちゃんのお母さんはいつの間に電話をしたのだろうとユミコは思った。
「行き先は聞いてください。代金はいつものとまとめて」
「わかりました」
そしてマリちゃんのお母さんは、早くもバイクにくくりつけられていたボストンバッグに口を寄せた。
「ユミコちゃん、今日は本当にごめんなさいね。明日、マリの話を聞いてあげてね」
マリちゃんのお母さんは最後までやさしかった。ユミコは黙っていたが、「はい」と返事をした。
住所を言うとバイクはすぐに走り出し、ユミコには大きなエンジン音しか聞こえなくなった。
「三丁目の方まで行ってください」
ユミコはバイクに乗るのは初めてだった。不思議と落着いた気分になっていた。何も見えない。走っている間は何も聞こえない。ずっとこのままでもいい気がした。
信号で止まった時、歩行者用信号から鳩の鳴く音声が聞こえてきた。駅前の交差点だ。すぐそこにお母さんの働くスーパーがある。ユミコはおそるおそるファスナーを開けてのぞいた。
来ないように言われていたけど、何度見に来たかわからない。お母さんは大体いつも右端のレジで働いている。横顔しか見えなかったけれど、とても疲れているようだった。
去年までのお母さんはとてもきれいでユミコの自慢だった。マリちゃんのお母さんと同じくらいきれいだった。でも、お父さんとしょっちゅうケンカしたり、あんなふうに働いているうちにすっかり疲れた顔になってしまった。
でも、とユミコは思った。お母さんはわたしたちのために一生けんめい働いているんだ。それなのに、わたしはマリちゃんのうちの子になりたいなんて願ったりしていた……。
ユミコは中に入って走り寄り、お母さんの腰に抱きついて言いたかった。
「お母さん、ごめんね」
しかし、ユミコはそうしなかった。妹なら腰に抱きつけるだろうけど、ユミコはボストンバッグだった。
バイクはあっという間に家の近くまで来た。聞かれるまま、見慣れた道を右、左とユミコは案内した。バイクが止まり、ひもが解かれ、ユミコはぶらりと宙に浮かんだ。
「部屋番号は?」
私が帰るのは何もない家だ、とユミコは思った。マリちゃんの家から見た景色が頭に浮かんだ。じめじめした通りにある、ちっぽけな家。
「101です」
バイク便のお兄さんがドアに向かって歩き始めた。
あんな脳みそだけのお父さんなんかいらない。マリちゃんはとても妹をほしがっていたけれど、あんな妹なんかピアノと交換してあげる……。
「誰かいるかな?」
ユミコは黙ってお母さんの作ってくれたポシェットから鍵を取り出すと、バッグの外にそのまま落っことした。金属の音が響く。
お兄さんは文句も言わずに拾ってくれた。このお兄さんも、マリちゃんの家からこの家に来てどんなふうに思っているだろう。カギだって、マリちゃんの家のカギとずいぶんちがう。銭湯のロッカーみたいなカギ。
「玄関に置いて行ってください」
鍵が開いて、お兄さんは中に軽く挨拶をして戻っていった。
玄関からすぐのところに赤いソファーが置いてある。お父さんはお兄さんに返事もせずに、やっぱりそこに転がって本を読んでいた。妹はその横でやっぱりテレビを見ていた。
ユミコがうなだれるようにしてたたずんでいると、お父さんが本に顔を向けたままの姿勢で言った。
「遅かったな、どうした」
ユミコはびっくりして言った。
「うん、ちょっと……」
すると、テレビを見ていたテナガザルの妹が振り返って言った。
「お姉ちゃん、いまおもしろいのやってるよ」
妹は立ち上がって、テレビに半笑いの顔を向けたまま、私の持ち手を探るように手を前に出して近づいてきた。ユミコは返事が出来なかった。テレビからエスパー伊東の声が聞こえてきて、涙が溢れてきそうになった。
「今度の土曜日です」
「そう」
マリちゃんのお母さんはちょっと沈んだ声を出した、すると、お父さんも小さな声でつぶやいた。
「マリのやつ……」
そして、テーブルの上に置いてあるボストンバッグの中にいるユミコに向かって言った。
「ごめんね」
あまり二人がやさしいのでユミコはもう少しで涙がこぼれそうになった。
ユミコのお父さんも昔はやさしかった。色々なところに、肩からさげて連れて行ってもらった。もちろんお母さんも妹も一緒に。キャンプにも行った。ディズニーランドにも行った。ミッキーにボストンバッグを持ってもらった写真は今でも大切に持っているし、ビッグサンダーマウンテンのロッカーにも入った。家族4人でいるのが、何より楽しかった。
でも、ある日、お父さんは脳みそだけの姿になってしまった。いつものようにユミコが道行く人に家まで運んで行ってもらうと、アパートの101の部屋の前にカープのキャップをかぶった脳みそが置いてあった。お父さんだった。会社はすぐに首になった。そのうち車がなくなってしまった。
お母さんはスーパーでパートをしていた。お父さんが脳みそになって働かなくなってからパートの時間を増やしたけれど、それでも生活ができなくなってしまった。
「どうして脳みそだけなの?」
あるとき、ユミコがボストンバッグの中からたずねると、お父さんはどういう仕組みなのか答えた。
「生きていくにはな、脳みそがあれば十分なんだよ」
「でも、それじゃ何にもできないよ……」
「お前だって、ボストンバッグの中で脳みそだけかも知れないぞ……なんと言ってもお父さんの子供だからな」
お父さんはテレビの前にある赤い革張りの下品なソファーの角に、埃や食べかすまみれで転がっていた。横に難しそうな本が広がっていた。ツバが本の方を向いているから、きっと読んでいるのだとわかる。
「ネズミの脳みその快楽を感じる部分に電極を埋め込んでだな、そこに電気を流すためのボタンを与えると、自分で死ぬまで押し続けるらしいぞ」
「お父さんはネズミなの? 違うじゃん」
そんな会話にまったく興味がないように、妹はあぐらをかいてテレビと向き合って背中を向けていた。もうなんにも関わりたくないというふうに。
半月ほど前、お母さんとユミコと妹の三人だけでおじいちゃんとおばあちゃんの住む福島県に行くことになった。お父さんがどこで暮らすのかはわからない。知りたかったがその話になるとお父さんもお母さんもすぐ話をそらしてしまう。そうしているうちに来週は引っ越しという日になった。ほんとうは夏休みまでは東京にいられるということだったのだけれど、どうやら家賃が払えなくなってしまったらしいのだ。
マリちゃんはクラス替えをして初めてできた友達だった。ユミコのボストンバッグには革がハゲている部分がある。マリちゃんはそこをジロジロ見たりしなかったし、ほかの子のように「そこ、どうしたの?」ときくこともなかったし、色マジックで塗りつぶそうともしなかった。マリちゃんには少し自分勝手なところがあったけれど、ユミコにはその思いやりがあるだけでよかった。だから、ユミコは誰よりも先にマリちゃんに引っ越すことを話していた。すると、この日曜にうちで一緒に遊ぼうと誘ってくれたのだ。
ユミコはそれがうれしかった。これまでに何度、マリちゃんの家に来たのかわからない。いつもきれいなお母さんが迎えてくれて、やさしくしてくれた。お店屋さんの洋菓子とすてきなカップに注がれた紅茶が出てきた。マリちゃんはそれを、そっぽを向きながらファスナーの隙間に押し込んでくれた。そのうち、最初は遠巻きに吠えるだけだった飼い犬のチャップマンが走り寄ってくるようになった。やがて吠えてうなって引っ張り回すようになった。あるとき、中から「おい!」と叫ぶと、飛び退いて中川家の兄がやるみたいに鳴くのを止めた。それから従順になり、部屋までユミコを運ぶのはチャップマンの役目になった。息づかいがすごく近かった。
マリちゃんの家に来ることが、ユミコの一番の楽しみだった。それなのに、マリちゃんはミドリちゃんの家に行ってしまった。ユミコはテーブルの上に置かれて、マリちゃんのお父さんとお母さんに囲まれている。今日、チャップマンはいつもの奥の部屋にいて出てこないらしい。マリちゃんがいないからだろうか。
二人に見られているのは恥ずかしかったので、ユミコは言った。
「すみません、日向に置いてもらっていいですか」
「あら、寒かったかしら」
「毛布でもかけようか? ハロゲンヒーターもある」
お母さんもお父さんも、がたがたと腰を上げて立ち上がりかけた。
「大丈夫です。日向が好きなんです。今日はお天気もいいし」
「じゃあ」
お父さんが軽々とユミコを持ち上げた。当たり前だけれど、チャップマンがくわえて運ぶよりずっと心地が良かった。やがて床に置かれて、体の左側がじんわりと暖かくなった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。テレビでもつけようか?」
すぐに妹の姿が思い浮かんだ。ユミコの頭がチクリと痛んだ。
「いえ、大丈夫です」
「音楽はどうかしら?」
少し遠くから、お母さんの声が聞こえた。
「ユミコちゃん、ピアノを習っていたでしょう?」
「いえ、習っていたわけじゃないですけど……学童で教えてもらって練習しただけです」
「あら、そうなの。時々うちに来て弾いていたじゃない。聴いて、きっと習っていると思ってたわ。あんなに上手なのに、そうなの」
ユミコは体の右側も暖かみが快く広がるのを感じた。
マリちゃんの部屋にあるピアノはユミコの憧れだった。時々、マリちゃんにバッグの持ち手を持ってもらって、学童のおばさんと同じように鍵盤の上へ上げ下ろしてもらった。その音をお母さんは聴いたのだろう。上手だなんて、ウソ。そんなのわかっていた。でも、ユミコはうれしかった。
「マリはいくら練習しても上手くならないからな」
「最近じゃ、すっかり飽きちゃったみたいで」
確かに、ユミコはマリちゃんがピアノを弾いているのを見たことがなかった。お父さんとお母さんの残念そうな声を聞くと、自分まで悲しくなった。そして、マリちゃんがなんだか憎らしくなった。
もしも私が……そう考えた時、軽やかなピアノの音が聞こえてきた。
だからユミコにはまるで、自分がそれを弾いているように思えた。マリちゃんの部屋のピアノの上で、上下するボストンバッグ。弾かれた鍵盤の奏でる優雅で楽しげな音色。
ユミコは思わずつぶやいた。
「すてきな音楽……」
「そうでしょう!」
お母さんの声がユミコのいる窓際まで弾んできた。
「マリには全然わからないのよ。AKBばっかり聴いて、興味がないんだからまいっちゃうわよね。ユミコちゃん、今、シュークリームを用意するからね」
それから、お母さんと話をしながら、ユミコはマリちゃんのお父さんにストローを差し込んでもらってアイスティーを飲み、一口サイズのシュークリームを食べた。ときどきユミコの家にお母さんが用意しているような袋に何個も入っているものでない、とても上品な味がした。
「それにしても遅いな」
ユミコとお母さんの話が弾むほど、お父さんは少しずついらだってきているようだった。
「さっきミドリちゃんの家に電話したんだけど、もうだいぶ前に出たそうよ」
「忘れてるのかな。しょうがないな」
「もしかしたら、ユミコちゃんの家に行ったんじゃないかしら」
お母さんはマリちゃんをかばって言った。
でも、そんなことが絶対にないのはユミコにはわかっていた。マリちゃんはユミコの家に来たことがないし、もしかしたら家の場所だって知らないかもしれない。
それでもユミコは二人のために言った。
「私、電話かけてみます。お借りしてもいいですか」
子機を差し込んでもらい、家にかけた。呼び出し音が12回も鳴って、ようやく妹が出た。お母さんは日曜もパートでいないし、お父さんは脳みそだ。
――もしもし。
間延びした声。マリちゃんが訪ねてこなかったか聞くと、妹は面倒くさそうに言った。
――誰も。
「そう」
答えてすぐに電話が切れた。
「うん、ありがとね。じゃね」
少し一人でおしゃべりしてから通話を切るボタンを押して、バッグから子機の頭を出した。
「やっぱり行ってないみたいです。お電話、ありがとうございました」
電話がすぽりと抜けて、お父さんの声がすぐそばで聞こえた。
「マリも、薄情なやつだ」
「何してるのかしらね。確かにうっかりすることは多い子だけど……もしかしたら事故にあったのかもしれないし……」
重苦しい雰囲気に耐えきれなくなって、ユミコは口を開いた。
「あの、ベランダに出てもいいですか」
マリちゃんの家は12階にある。来るといつも景色が見たかった。でも少し恥ずかしくて、いつまでも見ることはできなかった。珍しくもなんともないというふうに、マリちゃんがさっさと引っ込んでしまうからだ。
でも、今なら頼むことができた。それに、少しの間、自分はいない方がいいような気がした。理由を言うと、お父さんがすぐにひょいとユミコを持ち上げてくれた。
お父さんは気を利かせて、備え付けの物干し竿を一番高いところにセットしてくれた。それでも、背の高いマリちゃんのお父さんは背伸びもせずに楽々とユミコをつりさげることができた。そして、大きな洗濯ばさみで持ち手をとめてくれた。
「あの、ありがとうございます」
「何かあったら呼んでね。マリが見えるかもしれないし」
ユミコはお父さんに下から見られていることが恥ずかしかった。お父さんはそれを察したのか、すぐに、窓を少し開けたままにして部屋に戻っていった。
ファスナーを少し開けて階下を見下ろすと、小さな町が見えた。自分の家とは反対側だが、見えなくてよかったとユミコは思った。エレベーターも、車も、ピアノもおしゃれなカップもない、高級なシュークリームもない。ドアを開けたらすぐ道路だし、犬も飼っちゃいけないし、お母さんも滅多にいない、脳みそだけのお父さんと、テレビを見てる妹がいるだけの、やることなんて何にもない、あんな家なんか……。
その時、ガラス窓がコンコンとたたかれた。ユミコはギクリとして、少し揺れた。マリちゃんのお母さんだった。
「今、おじさんが車で捜しに行ったから、もう少し待っていてね。寒くない?」
「はい、大丈夫です」
「何か欲しいものがあったら、遠慮なく言ってね」
「はい、ありがとうございます。でも大丈夫です」
「ほんとに、何もなくて早く帰って来るといいけど……」
やさしいお母さん。やっぱりマリちゃんが心配なのだろう。
自分がいつもここから景色を見て、ピアノを弾けたらどんなにいいか。チャップマンを呼べばどこにだって移動できる。やさしいお父さんとお母さんに囲まれて……。一緒に音楽の話をして、お母さんを喜ばせてあげられる。マリちゃんは、お父さんは平日は仕事でいないけれど、日曜は一緒に遊んで勉強を教えてくれると言っていた……。マリちゃんはそれがちょっとウザいと言っていたけど、私なら大歓迎だ。こんなすてきな家族をマリちゃんは怒らせている。心配させている。ピアノだって弾かないし、約束をすっぽかして、恥をかかせている。私だったら、そんなことはしないのに……。私がこの家の子ならよかったのに。そして、反対にマリちゃんが私の家の子だったら、テレビ好きな妹とも話があったはずだし、お父さんは脳みそだけで何も言わない。それなら全部よかったのに……。
でも、マリちゃんは本当にどうしたんだろう。ユミコは県境の川を渡る電車を見ながら思った。もしかしたら、お母さんの言うとおり、帰る途中で事故にあったのかもしれない。もしかしてもしかしたら、ユウカイされてしまったのかもしれない。そして、ユウカイされたまま帰ってこないかもしれない。どこか遠いところに連れていかれてしまうか、殺されてしまったりするのかもしれない。
そう考えて、ユミコは自分がマリちゃんが死ぬことを望んでいるみたいだと気がついた。
そして、こう思った。そんなことを望んでいると、ほんとうにそうなってしまうかもしれない。やさしかったころのお父さんが言っていたことがある。いいことは望んでもほんとうにならないけど、悪いことは心の中で思っているだけでほんとうになってしまうんだよ。わたしがマリちゃんのことをユウカイしされたり事故にあったりすればいいと望んだりしていると、ほんとうにそうなってしまうかもしれない。そんなことを考えるのはやめよう。
遠くに小さく見える人は、それでも人とわかって動いていた。マリちゃんがいればすぐにわかるだろう。他の人じゃわからなくても、マリちゃんだったらすぐにわかる。息せき切って走ってくる姿が見えたら、私はどう思うだろう。ユミコは誰もいない交差点を見ながら考えた。
約束を思い出したマリちゃんが一目散に走っている。左右も見ないで、まっすぐ歩道から道路に出て行く。するとそこに……。ボストンバッグの中で、急に心臓の鼓動が速く大きくなった。ダメだったら! こんなことを考えていてはいけない。
「ユミコちゃん、マリ、いたって!」
後ろからお母さんの声がして、ユミコはハッとした。それから窓の開く音がした。
「本当ですか? よかった!」
ユミコはボストンバッグから叫んだ。鼓動はさらに高鳴っていた。
「マリちゃん、どこにいたんですか?」
お母さんは少しほっとしたように答えた。
「あの子、本屋さんでマンガを立ち読みしてんですって。ホントにしょうがない……」
きっとあそこだ、とユミコは思った。ゲームやコミックを安く売っているあの店だ。わたしが教えてあげたのに、どうして店に入ったときにわたしのことを思い出さなかったんだろう。どうして今日のこの約束を思い出さなかったんだろう。
ユミコはもう、ここにいる必要は無い気がしていた。どんなふうにマリちゃんと顔を合わせればいいのかわからなかった。ボストンバッグの中だからって、考え事を隠せるほどお互いに知らないわけじゃないし、もうお別れを済ませているような今の気分がうしろめたかった。
「私、帰ります」
今日ここに来たのは、マリちゃんのお母さんと話すためだ。素敵なおやつを食べて、景色を見るためだ。することは全部やった。なら、もういい。
「遅くなると、家族も心配するし」
言ってから、心配する家族なんていないとユミコは思った。自分に言い聞かせるようにまた繰り返した。心配する家族なんて……。
「でも、もう来るから待っていてくれないかしら。ね? ユミコちゃん」
「いえ、私、帰ります」
「帰ってきたら送っていくから、マリに謝るだけでもさせてもらえないかしら」
こっそりユミコはマリちゃんのお母さんの顔を見た。困り顔だった。マリちゃんのお母さんだって、私がマリちゃんと顔を合わせたくない理由がわかっているはずだ。だって、最後の約束を忘れられたんだから。
「それにユミコちゃん、一人で帰れないでしょ」
「外に出て、歩いてる人に渡してもらえれば大丈夫です。いつもそうしてますから」
「でも、そういうわけにもいかないわ」
「じゃあ、チャップマンに送っていってもらいます!」
ユミコはムキになって自然と声を荒げていた。自分でも無理を言っているとわかった。
「チャップマンは……」
会話のリズムが止まった。妙になって、ユミコも息をこらした。
「このあいだ死んじゃったのよ」
今日は、マリちゃんがいないから迷惑をかけないように奥の部屋にいるんだと思っていた。
「いつ?」
「二週間前に。突然だったの」
マリちゃんは、そんなことも言ってくれなかった。ユミコは重苦しい口調で言った。
「やっぱり帰ります。本当に」
ゆっくり、でもなんとなくきっぱりした迷いのない動きでユミコは物干し竿から外されて、マリちゃんのお母さんに運ばれた。
玄関のドアを開けてエレベーターに乗る。一歩ごとにかたく揺れながら、ユミコはボストンバックごと震えていた。マリちゃんのお母さんにそれが伝わってしまうか心配だった。マリちゃんのお母さんは今、私をどう思っているだろうか。そもそも、私のことを考えているだろうか。それともやっぱりマリちゃんのことを考えているだろうか。
マリちゃんに鉢合わせはしないかとユミコがこっそり覗き見ると、広い玄関の前にバイクが待っていた。マリちゃんのお母さんはボストンバッグを渡した。
「いつもありがとうございます」
バイクには大きく英語の言葉が書いてあり、小さく「バイク便」とあった。マリちゃんのお母さんはいつの間に電話をしたのだろうとユミコは思った。
「行き先は聞いてください。代金はいつものとまとめて」
「わかりました」
そしてマリちゃんのお母さんは、早くもバイクにくくりつけられていたボストンバッグに口を寄せた。
「ユミコちゃん、今日は本当にごめんなさいね。明日、マリの話を聞いてあげてね」
マリちゃんのお母さんは最後までやさしかった。ユミコは黙っていたが、「はい」と返事をした。
住所を言うとバイクはすぐに走り出し、ユミコには大きなエンジン音しか聞こえなくなった。
「三丁目の方まで行ってください」
ユミコはバイクに乗るのは初めてだった。不思議と落着いた気分になっていた。何も見えない。走っている間は何も聞こえない。ずっとこのままでもいい気がした。
信号で止まった時、歩行者用信号から鳩の鳴く音声が聞こえてきた。駅前の交差点だ。すぐそこにお母さんの働くスーパーがある。ユミコはおそるおそるファスナーを開けてのぞいた。
来ないように言われていたけど、何度見に来たかわからない。お母さんは大体いつも右端のレジで働いている。横顔しか見えなかったけれど、とても疲れているようだった。
去年までのお母さんはとてもきれいでユミコの自慢だった。マリちゃんのお母さんと同じくらいきれいだった。でも、お父さんとしょっちゅうケンカしたり、あんなふうに働いているうちにすっかり疲れた顔になってしまった。
でも、とユミコは思った。お母さんはわたしたちのために一生けんめい働いているんだ。それなのに、わたしはマリちゃんのうちの子になりたいなんて願ったりしていた……。
ユミコは中に入って走り寄り、お母さんの腰に抱きついて言いたかった。
「お母さん、ごめんね」
しかし、ユミコはそうしなかった。妹なら腰に抱きつけるだろうけど、ユミコはボストンバッグだった。
バイクはあっという間に家の近くまで来た。聞かれるまま、見慣れた道を右、左とユミコは案内した。バイクが止まり、ひもが解かれ、ユミコはぶらりと宙に浮かんだ。
「部屋番号は?」
私が帰るのは何もない家だ、とユミコは思った。マリちゃんの家から見た景色が頭に浮かんだ。じめじめした通りにある、ちっぽけな家。
「101です」
バイク便のお兄さんがドアに向かって歩き始めた。
あんな脳みそだけのお父さんなんかいらない。マリちゃんはとても妹をほしがっていたけれど、あんな妹なんかピアノと交換してあげる……。
「誰かいるかな?」
ユミコは黙ってお母さんの作ってくれたポシェットから鍵を取り出すと、バッグの外にそのまま落っことした。金属の音が響く。
お兄さんは文句も言わずに拾ってくれた。このお兄さんも、マリちゃんの家からこの家に来てどんなふうに思っているだろう。カギだって、マリちゃんの家のカギとずいぶんちがう。銭湯のロッカーみたいなカギ。
「玄関に置いて行ってください」
鍵が開いて、お兄さんは中に軽く挨拶をして戻っていった。
玄関からすぐのところに赤いソファーが置いてある。お父さんはお兄さんに返事もせずに、やっぱりそこに転がって本を読んでいた。妹はその横でやっぱりテレビを見ていた。
ユミコがうなだれるようにしてたたずんでいると、お父さんが本に顔を向けたままの姿勢で言った。
「遅かったな、どうした」
ユミコはびっくりして言った。
「うん、ちょっと……」
すると、テレビを見ていたテナガザルの妹が振り返って言った。
「お姉ちゃん、いまおもしろいのやってるよ」
妹は立ち上がって、テレビに半笑いの顔を向けたまま、私の持ち手を探るように手を前に出して近づいてきた。ユミコは返事が出来なかった。テレビからエスパー伊東の声が聞こえてきて、涙が溢れてきそうになった。
あなたがいる場所 (2011/04) 沢木 耕太郎 商品詳細を見る |